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マンモスの顔のようにも見える餅石

難所抜けて金谷側へ

承前。亀裂を川崎勝丸さんが先に越える。越えた先が垂直に切り立った崖。川崎さんは三点確保でこの崖を登り、念のため記者(忍足)にザイルを投げてくれる。

このザイルを頼りに、亀裂を越え、崖に張り付く。このとき、大きなうねりが入って、亀裂に海水が寄せた。するとどうだ。ザッブーンという音とともに、割れ目から潮が噴いた。これが潮噴きの地名の元であった。

国道127号には潮噴トンネルがあるが、それはここの真上である。山崎源治さんが言っていた潮噴きの難所とは、ここであった。

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13年1月26日 8,056
大きなゴロタ石を越える

F明鐘を歩いて渡る(上)

天下の副将軍・水戸黄門こと、徳川光圀は当地を訪れ、延宝2年(1674)に『甲寅紀行』でその詳細を記述している。光圀は舟で勝山に渡り、元名側から金谷へ向けて明鐘岬を踏破しているのである。

「鋸山の出崎の小なる路を、岸に沿いて通る。左は海浜なり」。現在、国道127号が通る法面の下の磯伝いを光圀が歩いたことになろう。甲寅紀行には、烏帽子石、布引石、餅石、冑島、頼朝の鞍掛け石などの名を残す。それでは、光圀が歩いたルートをたどってみようと、登山のベテラン・川崎勝丸さんと岩場を歩いた(取材は昨年夏)。

スタートは、元名側の鶴ヶ崎神社。南側の亀ヶ崎と一対をなす、鶴亀のめでたい地名のひとつである。

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13年1月19日 9,107
広重の「富士三十六景 房州保田海岸」

E浮世絵の明鐘を再現

関東の親不知、明鐘岬は古くからの交通難所で、江戸時代の浮世絵にも描かれている。有名なのは歌川(安藤)広重の「富士三十六景 房州保田海岸」。もうひとつは同じ広重の「房総の名所 房州保田の海岸」。同じ保田海岸を描いているが、構図が異なる。

前者は縦長の浮世絵、後者はうちわ絵である。

広重は房総へ二度、訪れている。最初は天保15年(1844)、江戸から船で木更津に着き、鹿野山を参拝。48歳のときだ。二度目は、嘉永5年(1852)の冬。おなじく江戸から木更津に着き、鹿野山を通って外房に出て、誕生寺、清澄山を参拝し、内房へ回って、那古観音から勝山・保田へ抜け、鋸山に参拝している。これは56歳のとき。

保田から見る富士山に感動し、この2つの絵を描いているのだ。

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13年1月12日 8,817
西側正面から見た明鐘岬

D海から明鐘岬

上総・安房の国境が東京湾に落ちる場所、それが明鐘岬。では、その岬を海から眺めたら、どんなだろうか。

鋸南町の昨夏のハイキングで、漁船によるクルージングがあった。この船に同乗させてもらった。

保田漁港を中型の釣り船が出港する。港を出ると、右舷に潜水艦の艦橋のようなコンクリートがある。これが保田の平島である。平島は元名沖にもうひとつあって、こちらは元名平島である。保田、元名の平島間には、岩が二つに割れたような二間(ふたま)島が浮かぶ。

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13年1月5日 12,326
そそり立つ不動岩

C不動山と金谷城跡

国道127号の明鐘トンネルを鋸南町から富津市に抜けると、左の海側にそそり立つのが不動山(岩)。国道を挟んでその真上にあるのが、金谷城跡である。

徳川光圀の『甲寅紀行』(延宝2年=1674)は、この岩と城跡を次のように表現している。

「此処に不動山あり。不動山の上に古城あり」

光圀は元名側から徒歩で明鐘岬を越え、この不動山に出合うのである。

不動山は国道の覆道(ロックシェード)の道下にある。かつてはここにドライブインがあり、その下には造船所があった。現在はいずれも撤去され、更地である。

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12年12月22日 8,944
半ば埋もれている墓石群

A旧日本寺域

鋸山南麓にある日本寺だが、かつては現在地ではなく、もう少し広い寺域だったという。山を下がった元名の高台もかつての寺域だったが、元禄の地震で壊滅状態になり、現在地に集約されたという説が有力だ。寺側に確認しても否定はされない。現在地は奥の院で、それほど広大な寺域だったということだろう。

では、かつての寺域はどこだったか。地元の山歩きのベテラン、川崎勝丸さんの案内で、元名の通称・寺畑付近を歩いた。

現日本寺表参道から、JRガードをくぐり、水仙橋を右折。左右に住宅を見て、左に折れると、やがて傾斜のある別荘地のような場所に出る。分譲はされたが、まだ数区画が更地の状態である。この傾斜地の高台がその場所であった。

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12年12月8日 8,485
元名の砂浜に埋まる黄金石=鋸南町元名

黄金5000貫を運んだ石船?

明鐘岬は、安房と上総を分ける郡界尾根の西端、急峻な尾根が東京湾に落ちる部分である。国を分ける著名な岬とあって、昔からさまざまな伝説も残る。明鐘編は、この岬に関する事象と、登山編、日本寺編で扱わなかった部分を取り上げよう。

黄金石は、国道127号元名第2トンネルの南側の直下の砂浜にある。砂の中に埋まった石だが、これが岩盤なのか、単独の石なのかは、いまだに不明である。ただ黄金石と言い伝えられた話もあるから、ここは石であることを前提に話を進める。

ではその話から。

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12年12月3日 8,638

開山1300年までの再建目指す

前稿からのつづき。

教育団体の再建の約束は、地方自治体にも引き継がれたが、新憲法は政教分離を貫き、日本寺再建への予算が組めなくなる。日本寺は戦後、明治維新の廃仏毀釈以来の大きな打撃を受けるのである。

本堂は、兵舎の建物を仮本堂とし、仮法堂と呼んだ。平成15年に書院が完成するまで、60年間、仮法堂での宗教活動が続いたのである。先代住職は、焼けなかった呑海楼を庫裏として使った。国号を冠した寺の苦難は続いた。

復興はまず、薬師本殿・医王殿から始まった。平成19年(2007)10月、鎌倉時代の禅宗様式で再建。現在は、書院わきの広場を造成、ここに@本堂A仏舎利塔B鐘楼C座禅堂・衆寮――を建てる計画だ。

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12年11月26日 9,113
復興を語る藤井住職

大火で諸堂が灰燼に

ここまで8回にわたって、10万坪あるとされる日本寺境内の石仏、石窟、展望所などを紹介してきた。日本寺編の最後は、復興計画を記そう。

国号を冠した寺院でありながら、日本寺にはほとんど檀家がいない。聖武天皇の勅詔を受けて行基によって開山された、由緒正しい仏閣であるが、運営上は拝観料だけで成り立つ、特殊な環境にあるのだ。

現在、日本寺には本堂がない。昭和14年(1939)の大火で、消失してしまったからだ。藤井元超住職(46)はいま、平成15年に完成した書院で勤行にあたる。仮の本堂という位置づけである。

その藤井住職に、復興計画を聞いた。

まずは、昭和の大火から遡ろう。

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12年11月19日 10,944
平場にぽっこりとした山頂展望台

G山頂エリア

鋸山南麓で最上段にあるのが、日本寺の山頂エリアである。これまで表参道、東口、大仏、羅漢エリアと、石仏群を中心にさまざまな紹介してきたが、山頂尾根にもいくつかの信仰対象物がある。

日本寺の広い境内は、一日では回りきれず、この取材も数日かけている。その最後に待つのが300b級尾根の山頂エリアである。

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12年11月10日 10,573
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