
21 G・M・ナイルさん
銀座・ナイルレストランのオーナー、輸入食品卸会社の社長、歌舞伎座に出演する俳優、大学教授、ラジオDJ、テレビでの芸能活動など、多彩な顔を持つG・M・ナイルさん(69)は、鋸南町元名の鋸山直下に自宅を持つ。同町の観光大使でもある。
波瀾万丈な人生を送り、その生きざまは聞き取り本『銀座ナイルレストラン物語』(21日付展望台「破天荒な成功者」参照)に詳しい。興味ある人はそちらを読んでいただくことにして、本編では鋸南町との関わりを取り上げよう。
東京生まれの東京育ち。「東京で成功したので、湘南にでも家を構えよう」(ナイルさん)と、いったんは湘南地方に土地を買うことを決めた。具体的な土地も、建築業者も内定していた。そこに知り合いから「千葉も見ないか」の声がかかる。
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S佐藤隆良さん
しばらく金谷側の人物が続いたので、ここでいったん、鋸南側に関連する人物に登場願おう。
別掲の画歴をみていただければ一目瞭然だが、佐藤隆良さん(62)は独特の筆遣いで日本画壇に確固たる地歩を築いた画家である。文化勲章受章者の平山郁夫画伯(1930―2009)の門下生という経歴も光るが、なにしろその絵から発せられるオーラがすごい。
なぜ、その高名な画家が館山に居住しているかは後述するが、まずは佐藤さんのブレのない人生を紹介しよう。
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R黒川豊さん
鋸山北麓で忘れていけないのが、安政元年(1854)創業の「かぢや旅館」である。数ある金谷温泉郷の中でも、老舗旅館として名を馳(は)せる。古くは西条八十(1950年)、秩父宮勢津子妃殿下(1966年)も泊まった温泉宿である。
その老舗の専務取締役が黒川豊さん(40)。父の治雄さん(73)、祖父の政次郎さん(故人)とも富津市議を務め、ふたりとも地方自治功労で叙勲の栄に浴した。
かぢやは鍛冶屋の意である。石材産出地である鋸山には、切り出し用の刃物が不可欠だった。その鍛冶をしていた家であろう。黒川さんは「近くにある金谷城の刀鍛冶という説もある。菩提寺の華蔵院の過去帳にはそんな記述も」と、遠い先祖に思いをめぐらせる。
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P高澤佳昭さん
鋸山観光のもうひとつのアクセス、東京湾フェリー株式会社(本社・横須賀市、斉藤昌哉社長)。久里浜と富津市金谷を結ぶ海の大動脈だ。今回は同社の金谷側責任者、金谷支店長の高澤佳昭さん(51)に登場願おう。
1981年(昭和56)の入社。東京湾アクアラインも、館山道も、富津館山道路もなく、夏の週末には国道127号に「フェリー渋滞」が発生していたころ。フェリー全盛期を知る社員でもある。営業部課長代理、久里浜副支店長などを経て、4年前から現職。南房総市内の自宅から通っている。
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O錦織淳志さん
組織としての鋸山ロープウエーで忘れてならないのは、若いこの錦織淳志さん(29)だ。
知る人ぞ知る、痛車(いたしゃ=アニメの絵、キャラクターなどを描いたオリジナル塗装車)のオーナーで、総務担当の社員である。愛車・ホンダフィットの4面にアニメ「インフィニット・ストラトス」のヒロインのひとり「セシリア・オルコット」を描く。
運転席側に指をさすポーズの表情と「いざ、頂上へ!!」、助手席側は目を閉じた表情で「鋸山に決まってるじゃない!」のコピー。フロントボンネットにもキャラクターが描かれ、天井にもある。
このクルマで地元・金谷から通勤している。「よく会社のクルマですかと聞かれるけど、正真正銘、自分のクルマです。会社からは一銭も出ていません」と錦織さん。
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N東原光陽さん
鋸山ロープウエー株式会社(富津市金谷)の取締役社長、東原光陽さん(43)に登場いただいた。年間40万人が利用する、鋸山観光の拠点施設のリーダーである。
同社は京成電鉄株式会社(東京都墨田区)の100%子会社。東原さんは京成電鉄でバス部門や事業企画部門が長く、バスのダイヤ作成、高架下の貸し倉庫業、千葉市内のスーパー銭湯開業などを手がけてきた。若くして新規事業課長のポストにあった企画マンに、子会社出向の辞令が出たのが2010年6月。まったく予期しなかった県南ロープウエーの社長。子会社であるバス会社への出向の経験はあったが、ロープウエーは初めてだった。「当時は、子会社でもっとも若い社長だった」と東原さん。
創業50周年、老朽化したゴンドラの更新が迫っていた。更新自体は京成グループの長期計画「Eプラン」に書かれたことで既定路線だが、実務はこの人が担うことになる。
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M森沢明夫さん
玉木節子さんの喫茶店「岬」をモデルに小説を書いた森沢明夫さん。今回は、県内在住のこの小説家にインタビューした。
――『虹の岬の喫茶店』、モデルは明鐘岬の喫茶「岬」だと思いますが、森沢さんと、岬の出会いを聞かせてください。
かつて日本の海岸線をぐるりと一周する旅のエッセイ『渚の旅人』を雑誌に連載していたのですが、その取材旅行中にたまたま「岬」と出会いました。道の駅きょなんの観光案内の方に教えて頂いたのがきっかけです。
――その喫茶「岬」で、虹の写真を見ましたか? 鋸南町元名在住の山崎源治さんが明鐘岬南側から撮影した写真ですが、その写真が小説のきっかけでしょうか?
拝見しましたが、あの写真はぼくが『虹の岬の喫茶店』を出した後に飾られたものなので、小説にはまったく影響していません。
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L玉木節子さん
明鐘岬にある喫茶店「岬」には、元名の生き字引・山崎源治さんが写した虹の写真が飾られている。南側から見た鋸山の尾根に、縦に虹が架かる。その尾根が東京湾に落ちる場所に、この喫茶店はある。
その「岬」を経営して35年となるのが、玉木節子さんだ。電話は富津市金谷の市外局番だが、所在地は鋸南町元名1番地。由緒正しい、大字元名の第一番なのである。
熊本県出身の両親が、明鐘岬で石材を切り出していた。採石スペースが限界を迎え、両親は出身地にちなんだ飲食店「阿蘇」を開店する。その後、玉木さんのおいがライブハウス「ASO」に切り替え、さらに玉木さんが隣接地に喫茶「岬」を出す。手づくりの喫茶店は風雨の強い岬の突端にある。平成23年(2011)1月20日夜、火災で焼失してしまう。
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K山崎源治さん
鋸山や明鐘岬を語る際、忘れてはいけないのが、山崎源治さん(76)だろう。鋸南町元名に生まれ育って3四半世紀。明鐘沖の漁場を知り尽くした元名の生き字引≠ナある。
弧を描いて広がる元名の砂浜の南端、鶴ヶ崎の磯場近くに、自宅がある。「朝起きて海を見て、昼に見て、夕方も見る。自宅の窓ガラスが赤くなれば、夕焼け。霧笛が響けば沖合はガスと分かる」。まさに、この海とともに生きた男なのである。
父・新治さんから、漁業を継ぐ。親子船の「八助丸」は伝馬船だった。昭和37年、元名の浜で貸しボート営業している中、動力船が必要になり、保田地区で初めて船外機を購入した。3・5馬力の最新型。当時としては相当な額だった。「当時は、伝馬船が全盛。動力は横着者との批判もあったよ」。
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J漱石と子規
「人物編 D関宏夫さん」(3月3日付)と重複する部分もあるが、関さんの悲願が形になりつつある。今回はその動きを「漱石と子規」としてまとめてみた。
明治の文豪・夏目漱石と、近代俳句の祖・正岡子規。2人がこの房州の地・鋸山で切磋琢磨しながら、文学の素地を磨いたのは、すでに述べた。その研究を続ける関さんは、3月27日、東京方面の漱石研究家らと一緒に、日本寺を訪ねている。記者(忍足)は一行と一緒に、日本寺を訪問した。
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