企画・エッセイ » 記事詳細
石翁から数えて5代目の小滝新一さん

名工の血を引く花農家

鋸山、日本寺を語る際に欠かせないのは、武田石翁(1779―1858)だろう。日本寺境内の十二神将のうち、完全な姿で残っている「摩虎羅大将」をはじめとした石仏を彫った石工である。後藤義光、武志伊八と並ぶ「安房の三名工」でもある。

石翁は本名・周治。本織村(現・南房総市)宇戸の名主・鎌田四郎左衛門の末子として生まれる。祖先が甲斐武田氏の出身のため、武田を名乗った。寛政3年(1791)、13歳のとき、元名村(現・鋸南町)の石工、小滝勘蔵に弟子入りする。その技術を見込まれて婿養子になり、地元はもとより、あちこちに石彫作品を残す。

その石翁の直系の子孫が、鋸南町元名の農業、小滝新一さん(76)である。

新一さんは石翁から数えて5代目。金蔵、新右衛門、寅松、新三郎と続き、新一さんが当代である。小滝家の屋号は3代前の当主の名「新右ヱ門」。通称「シムドン」である。

新一さんは安房農高を卒業し、そのまま家業の農業を継ぐ。「当時、農業はいい仕事だった。大工の手間賃が1日コメ1升だから、農家は相当恵まれていた」と、就農当時を振り返る。最初はストック、キンセンカが主体だったが、30歳のとき、単価も高いカーネーションに切り替えた。70歳を過ぎてからは、さらに手間のかからない宿根スターチスに切り替えている。

元名は海にも近く、半農半漁の人も少なくなかったという。石工の仕事も同じで、時期を見て鋸山に登り、石切りの手伝いをしていた。石で手間賃を稼ぐ農家もいたのである。

花が爆発的に売れたのは、大正の大震災後。東京での法要や慰霊で、花の需要が伸びた。目端が利いた農家は、水田を一気に花栽培に切り替え、東京へ出荷した。「花で蔵を建てた農家もいた」と新一さん。

生家近くに立つ「生誕之地」碑

石翁は、技術でその名声を高めたが、後進への技術の継続はなかったという。石工としての技術は石翁で絶え、その後、小滝家は農家として名を成す。

新一さんは、植物全般に詳しく、菊栽培の大家でもある。その栽培歴は40年。関東東海の大きな菊花大会で大臣賞を受けたこともあり、多くの人がその技術を認める。

菊とカーネーションは栽培面で似ている。限られた土で良質の花を咲かせるには、高い技術が必要だ。堆肥や薬剤で土の再利用を図る。菊栽培は趣味だが、花き農家のノウハウをすべて注いでいるのだ。

安房の名工・石翁の血を引き継ぐ新一さん。先祖の作品があちこちで大切にされていることに誇りを持つ。「日本寺の十二神将も、いつか再生されるといいのですが」と願う。

石翁の生家近くの本織神社に「生誕之地」石碑(平成10年、三芳村文化協会建立)と、説明看板がある。三芳の人は、その遺徳をこうして残しているのである。

菩提寺である存林寺には、同寺の開祖を彫った作品もあり、小滝家の墓には石翁が彫った墓石がある。次回は、その存林寺を訪ねる。

【写真説明】石翁から数えて5代目の小滝新一さん=鋸南町元名

【写真説明】生家近くに立つ「生誕之地」碑=南房総市本織

13年2月16日 9,177
Copyright (C) 2007 Bonichi. All Rights Reserved