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これまで撮影した写真を前に山崎さん

K山崎源治さん

鋸山や明鐘岬を語る際、忘れてはいけないのが、山崎源治さん(76)だろう。鋸南町元名に生まれ育って3四半世紀。明鐘沖の漁場を知り尽くした元名の生き字引≠ナある。

弧を描いて広がる元名の砂浜の南端、鶴ヶ崎の磯場近くに、自宅がある。「朝起きて海を見て、昼に見て、夕方も見る。自宅の窓ガラスが赤くなれば、夕焼け。霧笛が響けば沖合はガスと分かる」。まさに、この海とともに生きた男なのである。

父・新治さんから、漁業を継ぐ。親子船の「八助丸」は伝馬船だった。昭和37年、元名の浜で貸しボート営業している中、動力船が必要になり、保田地区で初めて船外機を購入した。3・5馬力の最新型。当時としては相当な額だった。「当時は、伝馬船が全盛。動力は横着者との批判もあったよ」。

地引網、刺し網、小釣り、釣り船、渡船と、ひと通りの漁をこなした。源治さんの漁の海域は大六沖から明鐘沖まで。明鐘岬の冑島(かぶとじま)には、コンクリート柱が打ってあって、これが保田と金谷の漁場の境だった。源治さんはけっして金谷側に出ることなく、保田の海で漁を続けた。

明鐘岬に架かった虹の写真(山崎さん撮影)

「沖でコハダやセイゴが跳ねれば、それを見て漁の判断をする」という。目の前の海は勝手知ったる存在だ。天候、海況、季節、潮目。それぞれを見分けて対象魚を決めた。

そんな元名の生き字引も、愛船・八助丸を手放す時が訪れる。平成23年(2011)3月11日の東日本大震災である。

午後2時46分。源治さんは、そのときも元名の浜にいた。大きく大地が揺れ、警報も流れた。津波の到来も予想されたが、75年間、目の前の海を見てきた源治さんは、冷静だった。

「沖合が大きく盛り上がれば、ここにも津波が来る。そうすれば、背後の八幡山(海抜26b)に登ればいい」。そう達観した源治さんは、沖合を見続ける。その小山には避難のためのロープもかけてある。準備万端なのである。

昭和35年(1960)のチリ地震のときも、冷静に沖を見た。今回も目の前の海を眺めていると、大きく潮が引いた。が、津波は大きくないと判断して、カメラを持ち出し、冷静に写真に収めた。

3・11では鋸南に津波の被害がなかったが、八助丸を手放すことに決めた。岩手県譜代村で壊滅した漁村が中古船をほしがっていることを聞き、被災地の役に立てるなら、と船を現地へ輸送した。震災から1か月後のことである。

源治さんの趣味は、写真撮影。朝から晩までコンパクトデジカメを手放さず、目の前の空の色も記録していく。初めて自分のカメラを持ったのは、中学3年生のとき。35_フィルムカメラに50_の標準レンズを装備して、これで何でも撮影した。現在は、鋸南町カメラ同好会に所属し、作品を発表している。

昭和61年(1986)の伊豆大島・三原山噴火の際は、決定的な写真をものにした。これが好評で、ワイド四つ切にして300枚ほど頒布した。

明鐘岬沖に架かった2筋の虹も決定的な写真だ。あまりの美しさに、欲しがる人もいて、プリントして分けている。

岬にある喫茶店に寄贈したこともある。この虹の写真が、また別のドラマを生むことになる。

【写真説明】これまで撮影した写真を前に山崎さん=元名の自宅で

【写真説明】明鐘岬に架かった虹の写真(山崎さん撮影)

13年4月20日 13,181
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