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自宅で地図を見る川崎さん

22 川崎勝丸さん

森の石松を扱った浪曲「石松三十石舟」ではないが、「ザ・鋸山」連載で「おいおい、ひとり忘れてはいませんか」。そうそう房総の山といえば、この人。本紙にも山歩き記事で頻繁に登場する、川崎勝丸さん(71)に登場願おう。

記者(忍足)が、山の師匠と仰ぐ大ベテランだ。半島の隅々まで知り尽くした博識ぶりには、右に出る者がない。普段から一緒に山行しているが、面と向かって人物取材するのは、意外にもこれが初めてである。

JR保田駅前の酒屋で、5人きょうだいの末っ子として生まれる。姉が3人という家庭だ。高校を卒業し、漁業関連の大手企業に就職するが、これが大変ハードな仕事。「忙しくて休めない」毎日で、1年後に希望して国鉄(当時)に転職する。理由は「両親を旅行に連れて行きたいから」。親孝行な末っ子は、グリーン車での旅行を何度もして、父親を2回も富士登山に連れて行った。

その一方で、川崎青年は勤務先の寮の若者らに誘われ、山を歩くようになる。最初に登ったのが雲取山(東京都・埼玉県・山梨県、2017b)。寒さに耐えながらの苦しい山行だったが、その後は山の魅力に取りつかれ、2000b以上の山を目指して、山岳三昧の若い日々を過ごす。

寮から出かけるときは気楽だが、勤務の都合で保田の自宅から山行するときは、母親がいつも駅まで見送りに来た。「気をつけてな、気をつけてな」の母の声を背に車中の人となり、氷雪の山岳を目指す。登山中は母親の声がずっと耳に残る。それゆえ安全登山を心がけた。

転機は、荒天の赤石岳で下山中に遭難者を発見したこと。単独行の男性が250b滑落して、救助を待っていた。救助協力をして川崎さんも無事戻るが、この男性が鴨川の人だった。

若きころの川崎さん

保田の自宅に、男性の家族がお礼に訪れる。その救助劇がいかに危険な状態だったか、具体的な話をした。これを聞いた川崎さんの妻が仰天。自分の夫はそれほど危ない山行を続けていたのだと知る。家族思いの川崎さん。愛妻の思いを痛いほど知り、フィールドを房総に切り替える。川崎さんも30代となり、子どもを授かっていた。

その後は、房総の山を歩く会の福田良さんと知り合い、房総の山の魅力にはまっていく。昭和50年ごろは、房総の主要尾根を除けば、ほとんどが未知のコースで、やぶだらけだった。「房総の山では、どこの誰にも負けない」。川崎さんは満身創痍で、やぶを切り開き、現在のルートを定めて行く。

山中で人と出会うと、不審者に見られたこともあった。「いまに見ておれ。必ず見返してやる」と奮起したこともあった。

川崎さんの奮闘は30年以上も続き、房州低名山はメジャー級になる。房州の山を歩いても不審者扱いされることはなくなった。「県外の山を歩く時間があったら、房総を案内したい」。そんな思いをもって房州の山を歩く。

鋸南町元名の自宅は、鋸山が良く見える場所にある。2階の窓から毎朝、鋸山を眺めては心を静める。「これからも元気なうちは、多くの人を案内したい」。

浪曲なら「房州保田の勝丸」だ。「すしを食いねぇ」。

【写真説明タテ3段 】自宅で地図を見る川崎さん=鋸南町保田

【写真説明タテ2段 】若きころの川崎さん=雲取山で

13年7月6日 38,001
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