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前回は卒業直後の新米医師としての私の辛かった経験をご報告しましたが、今回は、卒業後2年目に赴任した地方の病院で、あらゆる職種の人からいろいろと親切に教えていただいた経験をご報告いたします。

私は学生時代から医学部を卒業して医師になったら、2〜5年のうちに米国へ渡って、そこで医師としての修業を継続しようと思っていました。

そのために米国で医師として働くための資格となるECFMG試験にも合格していたので、医師になって2年目に、どこの病院で働くべきかの調査に夏休みを利用して出かけました。

訪問したのは、学生時代に名古屋放送海外派遣学生としてお世話になった、ユタ州ソルトレーク市シティのユタ大学病院と、恩師の岐阜大学外科教授の稲田潔先生にご紹介いただいた、ボストンのマサチューセッツ総合病院(MGH)でした。

大学の先輩たちの中にも、卒後数年で臨床医として留学を経験した人が何人かおられたので、私もECFMG試験にも合格していたので、医師になって2年目に、どこの病院で働くべきかの調査に試験に通っていれば、比較的簡単に勤務先は見つかるだろうと思って出掛けました。しかし、私が調査に出かけた1977年はベトナム戦争が終結して、戦地へ行っていた若い米国人医師たちが大勢帰国した時期に一致してしまいました。

そのため、「あと1年早く来てくれていたら、外国人レジデント大歓迎だったのだが、ご存じのようにベトナム戦争が終わって大量の若手医師が帰国したために、現在は米人の間でも外科レジデントのポジションの奪い合い状態なのだ。外国人の君に外科のレジデントのポジションを上げるのは、非常に難しい状況であることを理解してほしい」という説明を繰り返すばかりでした。私が「不可能か?」と聞くと、「立場上、インポシブルと言うと差別主義者と言われる可能性があるので言えないが、非常に、非常に難しい。分かってくださいよ」とのことでした。私は、これはダメだから、日本で修業に励もう、と覚悟を決めて帰国しました。

夏休みを使っての米国情勢調査を終えて出勤すると、私には、岐阜県の山間部にある郡上中央病院(現・郡上市民病院)への赴任が決まっていました。いわゆる医局人事というものです。9月1日から3か月の予定でした。

私は米国の外科レジデントに負けてはならじ、と思って、絶対に救急患者を断るな、と言って、毎日病院にいて、見張っていました。

おかげ様で、私が赴任した月から、病院の収入が3倍になりました。手術数もそれまで月6例であったものが20例以上になりました。

私はこの間、医師のみならず、看護師、事務職員、放射線技師、検査技師など、あらゆる職種の方々にたくさんのことを教えていただきました。

麻酔器の扱い方、ギプスの巻き方、X線写真の撮り方など、その面での資格を持っていない職員からもいろいろと教えてもらいながら、やっていました。今、こんなことを言ってしまったらまずいかな、と思いましたが、知り合いの弁護士に聞いたら、40年も前のことだから大丈夫です、と言われましたので、今、書いています。

とにかく、資格を持っていようと、なかろうと、皆、一生懸命患者さんを診て手術に励む私を応援してくださいました。看護師さんの中には、自分が難産で帝王切開になったときに私が執刀することになったか方もおられました。その方は後に看護部長にまで出世されましたが、会うたびに「加納先生に取り上げてもらった息子も、もう30歳を超えました」などと話してくださり、涙したものでした。卒業してまだ2〜4年目の外科医が、産婦人科医の立ち会いなしで帝王切開をやってしまっていたのですから、今から思えば、怖いことでした。

あのころの郡上の職員の皆さまとは、今も親友として交流を保っております。郡上の仲間がいなかったら、後の私の外科医としての人生はなかったものと思い、深く感謝しています。私、今、泣いています。

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加納宣康 昭和24年8月4日、岐阜県生まれ。千葉徳洲会病院長

(この原稿は加納医師が、本紙読者のためにボランティアで執筆しています)

18年3月26日 892
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