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私が縁あって千葉県民となってすでに23年目に入っています。

私は1996年に帝京大学医学部附属溝口病院から亀田総合病院へ異動いたしました。

私の異動に関しては、多くの外科医たちから「そのまま帝京にいれば助教授から教授への昇進が間違いないと思われる中、どうしてそんな決心をしたのだ、もったいないではないか」と質問をされたものでした。

私の答えは「亀田総合病院からお誘いを受け、実際に見に行ってみたら、これは面白いところで、自分のやってみたいことが十分にできるところだと思ったから」というものでした。亀田総合病院の自由さにほれた、と言って良いでしょう。

実際に赴任してみて、その期待を十分に実現することができました。亀田総合病院は私のやりたい手術を十分にやらせてくれる施設でしたし、私の手術を学びに来る外国人医師たちをやさしく受け入れてくれ、私は自分の手術を世の中に広く知らしめることができ、外科医として満足できる仕事をさせてくれました。

もちろん、私も期待に応えて、自分の業績を伸ばすと同時に、亀田総合病院の名を大いに高めることができたと思っています。頻繁にメディアの取材を受け、亀田総合病院と加納宣康の名をセットで世に知らしめることができたと思っています。

順風満帆な外科医生活の中、2003年5月に右冠動脈が根部で完全閉塞するというかなり重症な心筋梗塞で倒れました。胸にバズーカ砲を食らったような強い衝撃が走り、「これは死ぬな」と思ったほどでした。幸い、血栓溶解吸引療法が著効して、救命されました。

その4か月後に、インドヘ手術デモと講演に出かけた際に、激しい目眩(めまい)に襲われて、現地で緊急入院しました。小康を得て帰国後精査を受け、聴神経腫瘍と診断され、放射線治療を受けましたが、結果として、右側の聴力をほぼ完全に失いました。

それでもその後も外科医として手術をし続け、業績を伸ばし、弟子の育成に専心してきました。

このまま亀田総合病院で一生を過すのが一番楽だと分かっていましたが、亀田総合病院での在職満20年になったころ、徳洲会事件(政治資金規正法違反事件)が起こりました。

世の中の多くの皆さんは、これで徳洲会は終わり、と思われたようでしたが、私は、医療現場での医療者と患者さんとの関係はこれからも変わることなく続くと思い、徳洲会がたくましく生き続け、さらに発展するであろうという意見を新聞のエッセイでも発表していました。私の予想通り、徳洲会は多くの困難と戦い続け、存続し、さらに発展を続けました。

その闘いぶりを見るに付け、私はこのまま亀田総合病院だけを発展させて満足していてはいけないのではないかと思うようになりました。医療者として、亀田総合病院以外の施設を見てさらに勉強する必要があるのではないか、と思うようになりました。

そんな中、苦悩を続ける徳洲会グループからのお誘いを受け、結果として、「現在、問題がある病院こそ、将来の伸びしろも期待できるし、やり甲斐もあるだろう」と考え、千葉徳洲会病院の院長職を引き受けることになり、2016年4月に赴任いたしました。

赴任当初は、医師数が28人と少なく、業績も悪くて苦労しましたが、2年を経過したところで、医師数も50人に増え、業績も好転し、一安心ですが、まだまだ多くの問題が残っており、これからも全職員と協力してその解決に努力してまいります。

徳洲会へ入ってみて分かったのは、徳洲会という巨大組織のスケールメリットの大きさとそのパワーです。離島医療支援、災害時の医療支援チームの派遣、海外での医療協力などをみると、単体の医療機関ではとても不可能だと思われる活動とその効果を証明し続けています。

私の徳洲会との契約は満3年ですので、2019年3月末までです。徳洲会へ赴任後2年間の間に2回、脳出血で倒れて、危機に見舞われましたが、現在も、院長職を続けております。

自分の体がいつまで持つかわかりませんが、これからもいけるところまで仕事を続けていきたく思っています。

千葉県の皆さま、もう少しの間、この年取った病人を見守っていただけますよう、よろしくお願い申しあげます。

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加納宣康 昭和24年8月4日、岐阜県生まれ。千葉徳洲会病院長

(この原稿は加納医師が、本紙読者のためにボランティアで執筆しています)

8月6日20時00分 453
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