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巨大な石幢六面地蔵

[第5回]蔵玉へ

歴史ある石像物の連続

この六面地蔵のあるあたりが、川越藩の横尾番所跡である。広く平らになっている場所は、口留番所で、尾根西下の久留里線上総松岡駅のあたりあった藩の陣屋から役人が詰めていたという。このすぐ南側は上総亀山駅である。

清澄への街道であった証拠が、六面地蔵の先にある道標である。

高さ1bほどだが、いまも文字は読める。「坂畑青年會」が「昭和三年八月」の「御大典記念」に建立したものだ。

正面に「怒田久留里←→坂畑」とあり、側面には「蔵玉清澄天津方面←→柳城」と彫られている。

つまりは、来た道を戻れば怒田、まっすぐ進めば坂畑、左へ折れれば清澄方面、右へ出れば柳城ということだ。山の上の尾根道はここで四辻となっていた。さすがにここにはオフロードバイクの轍はないが、六面地蔵といい、道標といい、文化的価値の高い石像物があるこのルートを、車輪で荒らす権利は誰にもないだろう。

尾根筋から見える大福山

道標のとおり、左に進路を取る。道の左側の砂岩の壁に穴がある。これが炭焼きの窯跡である。当地の人たちは崖面を利用して炭を焼いたという。砂岩の釜は高温になるのが早く、白炭が焼けるとして重宝されたらしい。石油も電気もない時代、炭は日本の最大の熱源で、炭焼き釜と雑木林を持つ家は、いまでいう石油王である。久留里の各地に蔵が多いのも、こうした時代背景があったのだろう。山深い里の人たちは、経済力も豊かだったのだ。

いったん林道に出て、すぐに山道に入る。ここから先もヤセ尾根である。時折、左手に大福のような姿をした大福山(標高242b)が見え隠れする。兜を伏せたような山だから、別名「かぶと山」という。

横尾番所跡から、昼飯も食わずに歩くこと1時間10分。眺望も悪く、日当たりも悪い林の中なので、川崎隊長が昼食場所を探しながら歩く。同行の分水嶺歩き隊も少し不機嫌である。空腹が立腹させているのだ。

林道へ出る手前に、かつてない大きな道標が出る。人の背の高さはあるので、台座を含めれば1間はあるか。大きな石柱に文字が刻まれる。

「西ハくるり二里半 明治十八年」「東ハ山ゑ」「北ちゃうなん」「南ハきよすみ三里半」

久留里から10`地点で、清澄までは14`の位置にいることになる。こんな巨大な道標は見たことがない。

この道標のある山道を降りると、そこは産廃ダンプが縦横無尽に走る処分場だった。

(つづく)

【写真説明 タテ】巨大な石幢六面地蔵

【写真説明 ヨコ】尾根筋から見える大福山

10年4月5日 7,528
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