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茶室として活用されている呑海楼

C東口エリア(下)

東口エリアのつづき。

<呑海楼>

先代住職・藤井徳禅師が住居としていた、平屋建て。現在は茶室として活用され、週末に茶会が催されている。

建物は天明8年(1788)、江戸蔵前の札差、大口屋平兵衛の寄進。

楼からの海を呑むような眺めが、この名の由来だ。和室から庭に続く先に内房の海が見える。まさに呑海である。この茶室で茶をたしなむと、無作法でも、わびさびが感じ取れるものである。

庭には、新当斎先生試技碑=天保元年(1830)=、鱸松塘詩碑=天保14年(1843)=がある。

<亀石>

その呑海楼の庭に鎮座するのが、亀石。大きなオサガメのような姿である。頭は呑海楼に、尾は海に向かっている。亀石の近くにあるのが、法の松。

<日本寺鐘>

国指定重要文化財。数奇な運命をたどったのち、この日本寺境内に安置された。元々は下野国・佐野の天宝禅寺の鐘としてつくられた。その60年後、相模国・鎌倉の浄妙禅寺の鐘となったことが銘に刻まれ、いつからか日本寺の鐘となった。

鐘は下野、相模、安房と三転したことになる。戦乱で軍の陣中鐘となり、あちこちに運ばれた可能性もあるという。日本寺の伝では、この鐘は鋸山下の海から上がったとされ、そのためそこを妙金(明鐘岬)と呼ぶようになった。

戦国時代、安房・里見氏と相模・北条氏は戦を繰り返していたため、略奪品が海にあった可能性もあるが、多くは謎だ。

鋳造は佐野の名工、卜部助光。

<梁川星巌詩碑>

幕末を代表する勤皇詩人の梁川星巌(やながわせいがん=1787〜1858)の碑。美濃国生まれで、全国を周遊、江戸・神田に玉池吟社をおこし、漢詩を教えた。吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎ら、勤皇革命家らとも交流し、経済的な援助もした。彼らは安政の大獄で捕らえられるが、星巌はその前年に死去している。妻・紅蘭も詩人で、おしどり夫婦として諸国を回った。詩碑は「鋸山に遊ぶ」と題され、天保12年(1841)の建立。

星巌夫妻は同年6月、平久里中の加藤霞石(1802〜1873)家に9日間逗留、この際、鋸山に登っている。平久里中にはいまも「星巌橋」「紅蘭橋」がある。

【写真説明】茶室として活用されている呑海楼

【写真説明】大きなオサガメのような姿の亀石

【写真説明】数奇な運命をたどった日本寺鐘

【写真説明】「鋸山に遊ぶ」梁川星巌詩碑

大きなオサガメのような姿の亀石 数奇な運命をたどった日本寺鐘 「鋸山に遊ぶ」梁川星巌詩碑
12年10月13日 8,988
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