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愚伝禅師の墓でもある通天窟

脚に負担のかからぬ平場

高低差のある日本寺境内は、海抜数bから300bまで、概ね5段の層から形成されている。今回は鋸山登山自動車道の大仏口からそのまま水平方向に歩くルート。脚が痛い、高低差が苦手という人は、大仏口から歩いて、大仏広場までを往復するといい。

今回は脚に負担のかからないルートだ。

境内に数ある石造物の中で、気圧される感覚が生じるのが、この通天窟であろう。百尺観音の高さ、瑠璃光如来の大きさ、いずれも見るものを圧する感があるが、この三間四面の通天窟は少し違う。古めかしさが歴史と伝統を示すからだろう。

現在は曹洞宗となった、日本寺の開山堂。石窟の中には、中興の祖・愚伝禅師、永平寺開山の道元禅師、総持寺開山、瑩山禅師の両開山像を安置している。

愚伝禅師の墓であり、洞中には禅師をたたえた姫路城主、酒井忠道の碑=文化10年(1813)=がある。窟周辺にはいろいろな石碑が点在する。

通天窟の右にある、格子のはまったほこらの中にある羅漢像。右手に水仙を手にしている。台座には「東京下谷下車坂町華太」とあり、大正5年(1916)、東京の生花問屋「華太」の主人、内田太郎吉に世話になった人たちによって、太郎吉に似せてつくられ、奉納された羅漢像だ。

元名は江戸時代から野水仙の産地で、江戸に出荷され「元名の花」と呼ばれた。明治の初め、たまたま保田に遊びに来た太郎吉は、このあたりに野水仙が多いことに目をつけ、地元にその栽培法を教え、東京への販路を斡旋した。

いわば現在の特産品である水仙出荷の礎をつくった恩人だ。

その内田太郎吉羅漢像の脇に、建立50周年追善で昭和42年(1967)に建碑された。

門外不出とされる、インドの菩提樹。平成元年(1989)5月、インド政府から特別に苗木が贈られることになり、先代の藤井徳禅住職がインドで手渡された。大仏前広場に植えられ、当時は植樹法要も開かれている。

小さな地蔵に願い事を書いて、奉納する。大仏広場には、山のように積まれ、お願い地蔵が安置されている。

4年間にわたる復元工事によって昭和44年6月、一枚岩を彫刻して復元された大仏。正式名は薬師瑠璃光如来。高さは31・05bで、大きさでは日本一の磨崖仏。

もともと原型は同じ場所にあった。千五百羅漢を彫刻した大野英令が、天明3年(1783)、門弟たちと3年をかけて彫刻したもので、約27bあったといわれる。千五百羅漢をつくる際に寄付を募ったところ、三百万人講と称し、思いのほか寄付が集まったため、大仏を建立した。当時は白毫(仏の額にある光を放つ巻き毛)に金を使ったが、倹約令で頭頂部から取り除かれ、江戸時代末期、風化で崩落してしまい、その後も荒廃したままだった。

衆生を病から救う仏で、左手に持っているのは、薬の壷。

【写真説明ヨコ1段半】愚伝禅師の墓でもある通天窟

【写真説明タテ2段 】水仙の出荷の恩人・内田翁の顕彰碑

【写真説明ヨコ1段半】インド政府から贈られた聖菩提樹

【写真説明ヨコ1段半】山のように積まれたお願い地蔵

【写真説明ヨコ2段 】日本一の磨崖仏である瑠璃光如来

水仙の出荷の恩人・内田翁の顕彰碑 インド政府から贈られた聖菩提樹 山のように積まれたお願い地蔵 日本一の磨崖仏である瑠璃光如来
12年10月20日 8,500
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