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復興を語る藤井住職

大火で諸堂が灰燼に

ここまで8回にわたって、10万坪あるとされる日本寺境内の石仏、石窟、展望所などを紹介してきた。日本寺編の最後は、復興計画を記そう。

国号を冠した寺院でありながら、日本寺にはほとんど檀家がいない。聖武天皇の勅詔を受けて行基によって開山された、由緒正しい仏閣であるが、運営上は拝観料だけで成り立つ、特殊な環境にあるのだ。

現在、日本寺には本堂がない。昭和14年(1939)の大火で、消失してしまったからだ。藤井元超住職(46)はいま、平成15年に完成した書院で勤行にあたる。仮の本堂という位置づけである。

その藤井住職に、復興計画を聞いた。

まずは、昭和の大火から遡ろう。

火災は11月26日午後2時に発生した。現在は「登山者の過失」「風呂の火の不始末」などとされているが、事実は違う。この日、日本寺では教育団体の宿泊研修があった。藤井住職の4代前の19世住職は、東京へ出張していて不在。研修が終わり、参加した教育者らが保田駅に着いたころ、全山が赤く燃えたのを見たという。

午後2時の出火である。原因は風呂の火ではない。参加した教育関係者のたばこの不始末という。燃えたのは歴史ある本堂と、内部の聖武天皇の勅額宸翰(しんかん)、皇后の手ずからの刺繍になる三十三観音の軸物、御戸帳料。庫裏、源頼朝の扁額のある薬師堂、薬師如来像も燃えた。たまたま観音堂から本堂へ上がっていた、観音像も燃えた。いずれも国宝級の品だ。

昭和14年の火災と復興計画を知らせる境内の看板

青ざめた教育関係者数人は「腹を切ってお詫びする」と申し出た。ひとりではない。複数である。つまりは心当たりのある喫煙者数人であろう。

灰燼に帰した諸堂に対し、教育関係者らは再建を申し出る。寺宝、国宝は元に戻らぬが、本堂の再建には心をくだこうというのだ。

まずは木材が集められた。準備が進むなか、日中戦争が長期化し、太平洋戦争も始まる。国全体が戦争の道に突っ走る。聖武天皇の勅詔所でありながら、鋸山は全山、東京湾を守るため要塞化された。日本寺もこの渦にのまれる。

いまの地上デジタル局あたりには、高射砲も据えられた。本堂のあった場所に、兵舎が建てられ、兵士が駐在するようになる。集められた木材は、本堂にならずに、保田小学校の校舎に充てられた。

米軍の空襲によって、国土が焦土と化す。敗戦の中で、日本寺の大火や再建は忘れられていくのである。

出火原因も、こうした戦後の流れの中で曖昧化され、登山者や風呂の不始末と位置づけられた。

大火から70年。もう時効だろう。藤井住職はいう。

「原因はたばこの火。腹を切った人はいないし、再建もなされなかった。ただ、19世住職は責任を取って左遷された。寺にとってこの事実は重い」

(この稿つづく)

【写真説明タテ2段 】復興を語る藤井住職

【写真説明ヨコ1段半】昭和14年の火災と復興計画を知らせる境内の看板

12年11月19日 10,967
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