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半ば埋もれている墓石群

A旧日本寺域

鋸山南麓にある日本寺だが、かつては現在地ではなく、もう少し広い寺域だったという。山を下がった元名の高台もかつての寺域だったが、元禄の地震で壊滅状態になり、現在地に集約されたという説が有力だ。寺側に確認しても否定はされない。現在地は奥の院で、それほど広大な寺域だったということだろう。

では、かつての寺域はどこだったか。地元の山歩きのベテラン、川崎勝丸さんの案内で、元名の通称・寺畑付近を歩いた。

現日本寺表参道から、JRガードをくぐり、水仙橋を右折。左右に住宅を見て、左に折れると、やがて傾斜のある別荘地のような場所に出る。分譲はされたが、まだ数区画が更地の状態である。この傾斜地の高台がその場所であった。

やぶをかき分け、急な斜面を登ると、傾斜地にいくつかの墓石がある。正面は硬い岩盤の壁。ここに土が堆積していて、その土に墓石が半ば埋もれている。円柱型の石もあれば、角柱の石もある。

いくつかに「庵主」「心海東舟上座」などの文字も見られ、歴代住職の墓ではないかとも思われる。年代は「文化三年寅年」や「寛文」である。かつてこの地に寺院があり、元禄の地震で壊滅し、やがて寺はもう少し高台の現在地へ移った。そう想像するのが普通だろう。

高台から浮島方面を眺める

鋸南町史によれば、これら墓石は禅宗のもたらした墓形で、僧尼の墓塔に限られる形もあるという。

日本寺年紀では、元禄7年(1694)に観音堂が、13年(1700)に仁王門が再建されている。元禄の地震は16年(1703)だから、観音堂と仁王門が現在地に移った後、地震に遭って寺域が狭まったということだろう。

その後、安永3年(1774)に、日本寺中興の祖、高雅愚伝和尚が、現在地に寺域を移し、同9年に羅漢像安置の発願をしている=11月4日付、日本寺編F羅漢エリア(下)参照=。

岩壁には鋸南町の国土調査の杭が打ち込まれ、この地まで調査が終わっていることが分かる。

が、崖面は急で、足を踏み外せばそのまま、谷に落ちるような場所だ。よくぞ、ここを測量したものだと感心する。

現在は荒れ放題で、人々の記憶からも忘れられた場所だが、歴史的にも貴重な場所だ。

傾斜を下りて、分譲地の道に出る。ここからの眺めが秀逸で、竜島浅間山から亀ヶ崎、浮島までのなだらかな稜線が見事だ。

川崎さんによれば、このもう少し下の位置に山門があり、この高台の本堂に通じていたらしい。いまとなっては跡形もないが、歴史に思いをはせるのもいい。

この傾斜地の上が、民有地の平場で、その上が町道の鋸山観光道路である。距離的にもそれほど離れていない。

【写真説明】半ば埋もれている墓石群=鋸南町元名

【写真説明】高台から浮島方面を眺める=同

12年12月8日 7,978
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