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大きなゴロタ石を越える

F明鐘を歩いて渡る(上)

天下の副将軍・水戸黄門こと、徳川光圀は当地を訪れ、延宝2年(1674)に『甲寅紀行』でその詳細を記述している。光圀は舟で勝山に渡り、元名側から金谷へ向けて明鐘岬を踏破しているのである。

「鋸山の出崎の小なる路を、岸に沿いて通る。左は海浜なり」。現在、国道127号が通る法面の下の磯伝いを光圀が歩いたことになろう。甲寅紀行には、烏帽子石、布引石、餅石、冑島、頼朝の鞍掛け石などの名を残す。それでは、光圀が歩いたルートをたどってみようと、登山のベテラン・川崎勝丸さんと岩場を歩いた(取材は昨年夏)。

スタートは、元名側の鶴ヶ崎神社。南側の亀ヶ崎と一対をなす、鶴亀のめでたい地名のひとつである。

神社の鳥居を出て、コンクリートの小路を歩く。やがて右にこんもりとした茂みがある。この近くに明鐘の生き字引といわれる、山崎源治さんが住む。山崎さんに「これから明鐘を歩く」旨を告げると、「途中、潮噴に難所がある。渡れないかもしれない」と忠告された。「行けるところまで、行ってみます」と返して出発した。

岩の割れ目につかまりながら

小さな孤を描く元名の砂浜を歩く。固くしまった良い浜である。右手小高い場所に、カンナが咲く。通称「元名のカンナ」と呼ばれる場所だ。夏の鮮やかな花は、夏空に似合う。

カンナの先が小磯川。この小川を渡ると、砂に埋まった黄金石(明鐘編@参照)がある。波に洗われてもっと砂が減れば、全体が確認できるのだが。

砂が終わった場所が、歌川広重が「富士三十六景 房州保田海岸」で描いた場所。崖直下にフラットな岩盤。江戸時代の旅人は、この平場を歩いて、岬を越えたのだ(明鐘編E「浮世絵の明鐘を再現」参照)。

当時の道は、現在の国道127号の日本寺分岐あたりから、この崖まで下り、磯伝いに岬へ続いたことだろう。「関東の親不知」と呼ばれるだけあって、この岩場は難所中の難所なのである。だから浮世絵にもなるのだ。

この岩盤平場は長くは続かない。すぐに大岩がいくつも転がる場所になる。山側の崖には道らしい道もあったのだろうが、現在は崩落してこの岩を歩くしかない。川崎さんと慎重に、岩場を越えて行く。

岩盤には、ステップが切られた場所も残っていて、ここがかつての道だと分かる。

甲寅紀行には「昔通りし人の藤縄をさげたる穴の跡あり」という記述がある。実はこのルートには、岩に人工的な穴がいくつもある。木橋をかけたか、手すりをつくったか。現に、このルートの一部に、ナイロンロープがぶら下がった場所があった。光圀の時代もいまも、歩くにはこうした手がかりが必要なのだ。

しばらく行くと、国道127号元名トンネルの直下になる。崩落防止のため、崖下までコンクリートが打たれている。基礎部はフラットになっているので、ここを歩く。真上に大型車の通行音が響く。

このコンクリ辺りから、岩盤の質が違ってくる。この先は礫(れき)交じりの崖で、脆くはないが崩れやすそうな崖である。

正面にその礫交じりの崖がそそり立ち、行く手を阻む。崖前にはざっくりと亀裂があって、踏破するのにはやや難しい。ここが山崎さんのいう難所か。

(この稿つづく)

【写真説明】大きなゴロタ石を越える

【写真説明】岩の割れ目につかまりながら

13年1月19日 9,156
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