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正岡子規のパネルを手に語る関宏夫さん

D関宏夫さん

鋸山、日本寺に関わる人物で忘れてならないのが、夏目漱石と正岡子規だろう。明治の文豪と近代俳句の祖。この両巨頭を研究するのが、関宏夫さん(73)=いすみ市大原在住=である。

鋸山を仰ぎ見る、保田の駅前通りに生家がある。高校の書道教師となり、外房方面の高校に勤務する。縁あって大原の関家に入る。旧姓は「高濱」である。人物編の第1回(2月3日付)で取り上げた江田晃一さん、山登りでおなじみの川崎勝丸さんは1つ年下で、駅前通りで一緒に遊んだ仲だ。

その関さんの人生を変えたのが「掘(ママ)割や藪鶯を両の耳」の句。大多喜高校に勤務していた祭、子規が大多喜城を訪れ、この句を詠んだと知る。これが後のライフワークとなる、漱石・子規研究のきっかけだった。

房総での2人の足跡を調べていくうち、明治時代の若者の息吹が伝わってきた。2人が切磋琢磨しながら、この房総の地で、文学の素地を磨いたのだと知る。漱石と子規の研究家は大勢いるが、房総の足跡を調べた人はいなかった。未知の分野で関さんの好奇心が花開く。

漱石と子規のレリーフ(日本寺蔵)

将来の文豪、未来の近代俳句の祖は、鋸山で友情を深め、やがてそれぞれの道で花を咲かせる。関さんの飽くなき探求心はやがて、著書『かくれみの街道をゆく』(崙書房出版)に昇華していく。

漱石が鋸山や保田を訪ねた漢文紀行「木屑(ぼくせつ)録」の木屑とは、中国の故事で、鋸の屑(おがくず)のこと。おがくずは一般的に捨てられる存在だが、大事にとっておけば雪道に敷いて滑り止めの役に立つ。漱石の紀行文も「いまはくずのようだが、いつか役に立つ」という意味で子規に送った文章だ。子規はその意味を知っていて、にやつきながら読んだのではないかと、関さんは考察する。

記者(忍足)が地元の文学ファンとして「鋸山の鋸のくず」ではないのか、と話を振ったら「地元としては、鋸山説をとってもおもしろい」と相づちを打った。「鋸山のくずなら、話が広がるねぇ」。

研究家の関さんが、温めている夢がある。漱石と子規が鋸山を訪れた事実を知らせる石碑の建立である。実は関さん以前にも建立の動きがあった。ほかならぬ日本寺の前の住職、藤井徳禅師(故人)である。徳禅師は、若き2人の顔のレリーフを独自につくり、石碑の見積もりもしていた。逝去で動きは止まってしまったが、関さんは、現住職の元超師に話を継いだ。

関さんは、地元有志らと話を進め「漱石・子規 房州鋸山探勝碑を建てる会」を設立、資金集めに奔走している。全国各地の漱石、子規の関連団体に声をかけ、この石碑の建立を目指しているのだ。

15年間に及ぶ漱石・子規研究の総仕上げ。それがこの石碑の建立だという。「2人の文学のスタートが、この鋸山だったことを後世に示したい」と関さん。間もなく2人の生誕150年、漱石は没後100年を迎える。

【写真説明】正岡子規のパネルを手に語る関宏夫さん=鋸南

【写真説明】漱石と子規のレリーフ(日本寺蔵)

13年3月2日 9,593
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