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高雅愚伝師の石仏を前に昆住職(左)と神作氏

G高雅愚伝師(下)

承前。高雅愚伝師は南房総市本織出身である。生家の神作家には、高雅愚伝師の石仏が厨子に収まり、大切に保管されている。神作家では代々、大切な先祖像として信仰されているのである。

延命寺の昆尚道住職とともに、本織の神作家を訪ねた。現当主・駿介氏(67)が、新築母屋の仏壇から、厨子ごと出してくれた。

木製の厨子は間口26a、奥行き20a、高さ24a。200年の年月で煤(すす)けているが、室内保管なので状態はいい。観音開きの両扉に筆文字がある。向かって右側に「好風□八十二年」と読める。□は海に見えるが、詳細は不明。左側にも7文字確認できるが、読み取れない。

厨子から石仏本体を出す。ずっしりと重い。元名石の材質ではなく、千五百羅漢と同じ伊豆石ではなかろうか。高さ20aほどの小ぶりな石仏だ。曲禄と呼ばれる背もたれのある椅子に、袈裟をまとって座っている。右手には払子。大きな耳が特徴で、好々爺たる表情だ。

特筆されるのは、極彩色が施されていて、これが現在も褪(あ)せていないこと。個人宅の仏壇で、直射日光も当てずに大切に保存されていたからこそのコンディションである。

高雅愚伝師が本織・神作家に生まれ、慈恩院から日本寺に上がったことは前稿でふれた。日本寺では50年の長きにわたり住山し、千五百羅漢像などを造営した。石工、大野甚五郎英令を招き、安永8年(1779)から寛政10年(1798)まで石仏を彫らせている。文化9年(1812)の入寂前に、師の姿を誰かが彫ったのであろう。

高雅愚伝師は、自らこの像と厨子を82歳のとき、生家に贈ったのだという。厨子の奥壁には「文化七年 鋸山高雅書」と筆書きがある。高雅愚伝師直筆だ。

神作家の位牌を見た。安永5年(1776)9月に亡くなったのが「安室貞穏禅尼」。寛政8年(1796)4月に亡くなったのが「大乗絶同沙彌」。昆住職によれば、前者が高雅愚伝師の実母で、後者が実父ではないかという。日本寺住職で名をなした高雅愚伝師が、実の両親に法名を贈ったとみて、いいだろう。一般信者の戒名とは異なるからだ。

高雅愚伝師の生家が、本織・神作家であることは、あまり知られていない。立派な石仏があることもだ。積極的にPRすることでもないので、同家でも対外的に語らなかった。現当主の駿介氏は「こういう先祖がいることを誇りに思う」と語っている。

日本寺中興の祖が房州外の出身ではなく、本織出身ということに、記者(忍足)も喜びを感じる。50年も住山した高雅愚伝師が、辞世の七言絶句を残している。

本稿の最後に、その絶句を掲載しよう。

鋸岳春秋五十年

樓台花月倚 簾前

(二)(一)

生涯自是如 雲霧

(二)(一)

此日随風向 別天

(二)(一)

鋸山に住み50年、ここで仏事に専念し、生涯を雲と霧とともに過ごし、風に向かい、天になるという意だろう。仙人めいた辞世であるが、神作家の石仏を見ると、飄々(ひょうひょう)とした表情から仙人にも見えるのである。

中興の祖の像を前に、鋸山の奥深さをあらためて思う。

【写真説明】高雅愚伝師の石仏を前に昆住職(左)と神作氏=南房総市本織

13年3月23日 7,797
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