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高雅愚伝師の石仏(神作家蔵)

H高雅愚伝師と武田石翁

人物編では、安房の三名工・武田石翁と日本寺中興の祖・高雅愚伝師を取り上げた。それぞれ房州の郷土史を飾る人物で、活躍した年代も一致している。この2人を考察していると、奇妙な一致点が見い出せる。それは生誕の地が本織村(現・南房総市)ということである。

本連載のため2人を調べると、2人の生誕地は直線距離で300bほどであることが分かった。生誕地の一致と関連する事項を、もう少し掘り下げてみたい。

この2人が同じ地区に生まれたことは、あまり知られていない。石翁は、生誕地近くにそれを示す石碑が立ち、三芳地区の人には周知の事実。だが、高雅愚伝師の生家が神作家ということは、郷土史の中でもあまり明確にされなかった。さらにその生家に師の石仏があるのは、長い間、語られなかったことである。

記者(忍足)は、南房総市の神作家で、高雅愚伝師の石仏を拝見した後、鋸南町の存林寺で、開山堂に安置されている雲嶺禅師の像を拝んだ。順序は神作家が先、存林寺が後であった。このときは何の思念もなく、2つの石仏を写真撮影しただけだ。

が、その後の記事を組み立てている際、ある一致に気づいたのである。2つの石仏は大きさも、着色も、意匠もよく似ている。雲嶺禅師は如意を持ち、椅子に座る。高雅愚伝師は、右手に払子を持ち、曲禄に座る。袈裟は同じような赤系。柔和な表情は同じで、高雅愚伝師の方がしわの表現が細かい。

作風はもちろん、石仏全体の雰囲気がよく似ているのである。

雲嶺禅師の石仏(存林寺蔵)

雲嶺禅師は石翁71歳の作とされており、生年から逆算すると1849年(嘉永2)の完成だ。いっぽう高雅愚伝師は作者不明。82歳のとき、神作家に像を贈っているが、これを逆算すると1810年(文化7)になる。2つの年の差は39年。ここに考察のヒントがあった。

同じような作風の2つの石仏。雲嶺禅師は石翁作。その39年前に同じ作風の石仏があった。これを石翁の作と仮定したらどうだろう。

年表に仕立ててみると、石翁32歳のときに、高雅愚伝師の像が彫られていることになる。19歳で厳島神社の七福神(南房総市)、25歳で山荻・極楽寺の宝塔(館山市)を彫っているから、32歳で高雅愚伝像を彫ったとしても、何の不思議もない。

日本寺に長らく住山した高雅愚伝師が、麓の元名在住の石翁とも交流があったと想像するのは、無理のない話だろう。山中に多くの石仏がある寺の僧と石工。親交するなかで、2人の生誕地が近いことを知る。近在の村ではない。直線距離で300bの同じ村内である。出身地が同じと知った2人が、さらに絆を深める。

年は違えど、同郷同士で親しくなったに違いない。石翁が親愛の情を込めて、高雅愚伝師を彫る。それを生家に贈る。あくまで考察であるが、そうだとしたら、郷土史上の新発見かもしれない。

その点を、石翁の作品に詳しい、鋸南町の菱川師宣記念館の笹生浩樹学芸員にぶつけてみた。笹生氏は「石翁が32歳の1810年は、まだ『石工周治』の銘を使っており、石翁を名乗って作風が確立するのは1818年以降。老練の高雅愚伝師が、若い石翁に依頼した可能性は低いのでは」と、否定的な見解を示す。

記者の仮説の基盤は弱そうだが、歴史ロマンを追う記者としては、捨てがたい仮説である。

【写真説明】高雅愚伝師の石仏(神作家蔵)

【写真説明】雲嶺禅師の石仏(存林寺蔵)

13年3月30日 8,994
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