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安藤広重「安房國水仙花」

I内田太郎吉

3代目安藤広重(1842―1894)によって描かれた浮世絵「安房國水仙花」は、海を背景に水仙が咲く構図。近景に枝ぶりのいい松が生え、半てんを着た職人風の男がしゃがんで水仙を切っている図だ。

この風景画が、元名の水仙自生地の描写である。現在は鋸南町が「1億本の水仙」を自認する、水仙の一大産地。町は水仙を前面に打ち出して、観光PRを続けている。この水仙がこれほど有名になったのは、ある人物のお陰なのである。

内田太郎吉。東京の下谷区(現・台東区下谷)で生花問屋「花太(華太)」を営んでいた人物だ。

太郎吉は埼玉県北足立郡谷塚村(現・草加市)の内田半兵衛の長男として、嘉永3年(1850)に生まれる。ペリーが浦賀に来航する3年前。幕末の揺れ動く時代に産声を上げた太郎吉は、自ら花づくりにも励んだという。

大政奉還で、江戸が東京となった明治元年(1868)に、太郎吉は好きな花の道で身を立てようと上京。下町の人々の温かい人情にふれながら、老舗花問屋の株を譲り受け、新たに下谷下車坂に「花太」を開業する。明治19年(1886)、太郎吉36歳の時だった。

内田太郎吉を称える水仙羅漢

東京に当時、花問屋は少なく、植木や盆栽の需要があった程度。切り花といえば、仏前に備える菊花で、現在のような流通システムはなかったという。

花問屋の経営が軌道に乗り、太郎吉は房州に遊山に出かける。鉄道のない時代。汽船での訪問だろう。保田の海辺に多くの水仙が自生する姿を目にした太郎吉は、香りも高く格式高い水仙が、市場ニーズが高いことに気づく。

東京は近代化、都市化され、日清・日露戦争が生花の需要に拍車をかけた時期である。当時の切り花生産地は少ない。保田での水仙自生を見た太郎吉は、水仙の生育に適している気候を利用した栽培方法を地元農家に丁寧に教え、安定した水仙の生産を可能にする。東京への販路もあっせんし、農家に花卉栽培への転換を促し、多くの生産者に現金収入をもたらすことになる。

保田の水仙は、大正年間の鉄道開通とともに、大きく飛躍する。東京にその日のうちに届く生産地として、保田は一躍脚光を浴びるのである。これも太郎吉の先見の明ゆえだ。生産者らは大正5年(1916)に「翁の奨励と指導により保田水仙組合を嚆矢として各地に普及せる房州生花の栽培と東京都内の生花市場の潤沢なる活況とは一に懸つて翁の功績に依るものなり」として、顕彰する「水仙羅漢」を建立する。

これが日本寺境内の通天窟右側にある水仙羅漢像である。当時、太郎吉66歳。存命のまま、羅漢像になったのだから、地元の敬意がどれほど厚かったか分かる。

花ひと筋に生きた太郎吉は、大正9年(1920)、70歳で天国へ旅立つ。当時としては天寿のまっとうであろう。

水仙羅漢は格子のはまった祠のなかに鎮座する。右手に水仙を持った羅漢像は、日本寺境内でもこれだけ。水仙がいかに地元の経済を潤したかを伝える証拠である。

太郎吉の死後、50年追善で建立されたのが顕彰碑で、昭和42年(1967)に、水仙羅漢像の隣に建てられた。

広重の時代に「元名の花」と呼ばれた水仙は、太郎吉によって「保田の花」となり、現在は地元を挙げて「鋸南の花」となった。水仙栽培の歴史にその名を刻む、功労者が内田太郎吉なのである。

【写真説明】安藤広重「安房國水仙花」

【写真説明】内田太郎吉を称える水仙羅漢=日本寺境内

13年4月6日 8,430
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