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私もすでに70歳になりましたので、人生最後の仕事場をどこにするかを考えるようになりました。

そんな中、昨年の日本臨床外科学会総会(高知市)の中で、私は「特別企画1 日本臨床外科学会賞受賞者による講演『如何(いか)に地域医療に貢献してきたか』」の中で登壇する機会を与えられました。

その中で、これまでの私の外科医人生の中で、勤務してきた医療機関でいかにして働き、若手医師の教育に従事し、結果として勤務先の経営改善にも貢献し、その地域の医療の発展に関与してきたかについてお話ししてきました。

この学会の中では、一般演題の中にも「地域医療における問題点」を扱ったセッションがありました。

東日本大震災以来、いつも私の脳裏にあったのは、震災後、地震、津波に続く原発事故で、日本の不幸を一身に背負い込むことになってしまった福島の人々にいかにしてお役に立つことができるか、という課題でした。自分自身も福島へ行って医療に従事しなくては、人間として医師として任務を果たしたとは言えないのではないか、許されないのではないか、大手を振ってさんずの川を渡れないのではないか、という忸怩(じくじ)たる思いが続いていたのです。

その学会の一般演題の中で、亀田総合病院時代の弟子の一人であるH医師が「現在、福島県で医療に携わっていますが、本当に福島というだけで医師が来てくれないのです」と切実に訴えていました。私は研修医時代の彼の姿を思い出し、胸が熱くなりました。そこで私はフロアから発言し、「いくら医師不足といっても、私のような病気をたくさん抱えた老人を雇おうとは思わないでしょうね」と問いました。彼は「いいえ、加納先生のような方にはぜひ指導者として来ていただきたいです。大歓迎します」と答えました。

私は、司会をしていた松原千葉大学教授と吉田岐阜大学教授に、「では私は、来年は千葉県から福島県へ移りますので、よろしく」と言いました。司会者も会場の聴衆の皆さまも冗談だと思っていたと思いますが、実は私は結構、本気になっていたのです。瞬時に決心したといってよいでしょう。

学会後、H医師を通じて彼が勤務する郡山市の総合南東北病院のことを調べてみると、彼の発表のときには同院のT院長も同席しておられ、私とH医師との質疑応答を全て聴いておられたことが分かりました。

そんな縁があって、その後、私の総合南東北病院への入職の話が急速に進みました。

千葉徳洲会病院との契約もこの3月で満期になるので、良いタイミングでもありました。

千葉徳洲会病院職員および徳洲会本部の皆さまからは強い引き留めをいただきましたが、自分の年齢、健康状態を考えると、この機会を逃すと、福島の皆さまのお役に立つ最後の機会を失うことになると考えて、わがままを許していただけるようお願いいたしました。

鴨川市の亀田総合病院で20年間、船橋市の千葉徳洲会病院で4年間、勤務させていただき、千葉県の皆さまには本当に良くしていただき、感謝しております。

特に南房総の皆さまには、この房日新聞のエッセイを通じて、私の良き理解者になっていただけたことに、深甚なる感謝の意を表します。毎週、書き続けて、本号で1091回となります。

なお、本紙のエッセイは福島へ移ってからも続けさせていただきますので、長いお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。

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加納宣康 昭和24年8月4日、岐阜県生まれ。千葉徳洲会病院名誉院長

(この原稿は加納医師が、本紙読者のためにボランティアで執筆しています)

1月20日20時00分 742

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