ニュース » 記事詳細
当時の写真に見入る須藤さん=館山市の自宅で

93歳元兵士 須藤八夫さん

海の特攻&莱サさせない

昭和18年10月、旧海軍に志願。横須賀海兵団から、小型ボートを使った特攻兵器の隊員となり、小笠原諸島の父島で陣地を築いた男性(93)。さらに南の硫黄島では、日米両軍が激戦を展開、男性は父島で砲声を聞いた。終戦で引き揚げとなり、広島県大竹町(現・大竹市)へ。除隊になったのは昭和20年12月13日だった。男性は「特攻と言えば飛行機による特攻のイメージが強いが、私たちの部隊も特攻隊だった」と、戦後73年目にあの戦争を振り返る。(忍足利彦)

館山 93歳元兵士 須藤八夫さん 海の特攻&莱サさせない

◇「戦争はしてはならない。それだけは、はっきりしている」

館山市水玉、須藤八夫さん。名前のとおり、両親の8番目の子どもだ。19歳で志願して旧海軍に入り、基礎訓練や砲術学校を経て、横須賀海兵団の第3分隊に配属される。

19年の夏、「新設陸上部隊要員、下士官兵10名」の募集を知り、即座に入隊希望を伝える。「 (まるよん)艇」という小型ボートを使った特攻隊だった。

同年8月15日、 艇が正式兵器として採用されたことを知る。その日の時点で兵器は「震洋」と命名され、須藤さんの部隊は「第1震洋水上特別攻撃隊」の名称で呼ばれた。すぐに父島への進出が決まった。隊長の大尉からは「帝国海軍初めての水上特攻隊であるから、名誉と誇りを持って任務を遂行するよう」訓示があった。

須藤さんは横須賀海軍工廠(こうしょう)へ、兵器である艇を引き取りにも行った。

出港までは、自宅へ一時戻ったり、記念写真を撮ったりして過ごす。

出港は8月30日。常盤山丸で横須賀を離れ、故郷・館山港に一時入港する。1週間前に1泊で帰省したばかりで「未練がましい」が、沖合からふるさとの街並みを眺める。

父島へ向かう途中、米軍の魚雷攻撃を受けて、撃沈。船は2つに折れて、沈む。須藤さんは丸太につかまり、味方の駆潜艇に救助される。父島へ着いたのは9月11日。着のみ着のままだったが、ここでようやく軍服など一式が支給され、「1人前の兵士」になる。

島には梱包(こんぽう)された震洋が50隻余りあり、第1震洋隊は荷揚げ、解包、道路の建設、陣地づくり、4本の格納庫の建設などに追われた。

父島には第1のほか、第2、第5震洋隊が配備を完了。母島には第3、第4隊が配備され、基地建設も完了する。

20年8月までに、太平洋に146隊が編成されたという。

須藤さんは述懐する。「人が乗って体当たりする艇であるから、当然、搭乗員が必要。この搭乗員こそが、艇の運命を左右するわけであるので、搭乗員の養成も大きな課題だった」。

実際、父島にも60人の搭乗員がいたが、震洋が出撃する機会はなかった。が、父島の南300`の硫黄島では日米両軍の激戦が展開された。須藤さんは母島からの砲声も聞いている。

終戦後も、隊員は父島に残り、陣地の破壊、兵器の撤収などを続けた。本土へ引き揚げたのは20年12月13日。故郷には同月16日に戻り、両親が出迎えてくれた。

病弱だった父親も喜んでくれたが、21年2月に死去した。須藤さんの戦後は艱(かん)難辛苦の歳月だった。今年3月、自宅で手記を書いた。「このまま戦争という事実、海の特攻隊員があった事実を風化させてはならない」という思いからだ。現在は車いすで週3日、デイサービスに通う。耳も遠くなり、体も自由に動かない。それでも須藤さんは強く訴える。「戦争はしてはならない。それだけは、はっきりしている」。

【写真説明】当時の写真に見入る須藤さん=館山市の自宅で

8月14日20時00分 621
Copyright (C) 2007 Bonichi. All Rights Reserved