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標柱を前に協会のメンバーら=館山の金台寺

館山文化財保護協会「存在知って」と

年貢減免の嘆願運動で、3人の名主が処刑された北条藩の万石騒動。後の世まで三義民と呼ばれ、地元の館山市国分では、毎年11月に三義民の供養祭が行われている。農民側が処刑された一方で、地代官親子2人も役人・川井藤左衛門によって処刑され、同市北条の金台寺にひっそりと眠る。館山市文化財保護協会(佐野邦雄会長)が26日、この親子の墓を示す標柱を立てた。2年後には万石騒動の300年忌になることから、農民側に立った代官がいた史実を後世に伝えていく。

万石騒動は正徳元年(1711)に起こった。安房北条藩屋代家の財政再建のために、召抱えられた役人・川井藤左衛門は、新田開拓などで増産・増益を図るが、やがて領地の村に対して年貢の倍増を命じたため、領民の反発を招いた。

農民らは北条陣屋前に押し寄せ、減免を嘆願。江戸屋敷へも出向いたことから、川井が6人の名主を捕らえ、そのうち湊村、国分村、薗村の3名主を萱野で処刑した。ほかの3人の名主も追放処分となる。

地元では、処刑された3名主を三義民と呼び、国分寺には市指定史跡でもある三義民の墓がある。国分区では毎年11月26日に供養祭を開いており、騒動と義民をいまに伝えている。

三義民が広く知られているのに対し、北条藩代官の行貝弥五兵衛国定(享年42)とその子、弥七郎恒興(同21)の存在は、一般的ではない。弥五兵衛は、国分村名主、飯田長次郎と遊び仲間であった。屋敷が地続きだったこともあり、代官でありながらも農民と親しくしていた。地方役人として藩政に厳密に当たる面もある一方で、農民に味方し、農民側に立つこともあったという。同協会のメンバーらは「農民の味方をしたことで、川井の怒りをかったのだろう」と300年前に思いをはせる。

行貝親子は、三義民とは別の場所で処刑され、北条南町の金台寺に眠る。行貝家の菩提寺はほかにあるから、親子の墓だけが金台寺に置かれる。墓石は大小2つあり、その脇に農民側に立ったため処刑された旨の小さな石碑がある。昭和46年11月、本堂落慶を記念し、当時の住職・小林昭道氏と子孫の行貝守男氏の連名での建立だ。

いくつも墓石がある中で、親子の墓は目立つ存在ではない。そこで、市文化財保護協会で標柱を立てることになり、この日の作業となった。標柱は12・5aの角柱で、1b30aほどの高さ。「正徳元年卯十一月二十六日」「萬石騒動の折 百姓方に加担 為に藩役人に処刑される」などと書かれている。

作業にあたった同協会のメンバーらは「2年後には万石騒動300年祭を迎える。三義民ともども、農民側に立った行貝親子の存在も知られてほしい」と口をそろえた。

【写真説明】標柱を前に協会のメンバーら=館山の金台寺

08年5月27日 9,462
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